ザ・タイガースが解散して今日で丁度半世紀。1971年1月24日、彼らはたった4年余りの活動に終止符を打った。当時は今と違って情報が画一的で、それ故ブームが一極集中する反面、大衆が飽きるのも早かった。またプロダクションもタレントを育てようとする気配がなく、ブームが去れば次のブームに乗るために既存のアイドルを切り捨てる。アイドル寿命を延ばすための戦略などなく、アイドルが存在できるのは一過性のブームの中でしかなかったのだった。同じようにザ・タイガースもGSブームが起こった1967年にデビューし、1968年に頂点を極め、1971年に解散した。だが、GSブームそのものは2年足らずで終わっていたといっても過言ではないだろう。
 バンド・ブームに火が付き、「グループ・サウンズ(GS)」と言う言葉が登場したのが1967年。翌68年の暮れにはブームは犲村租に畚焉を迎えていた。それを示しているのが68年のクリスマスにGS雑誌・ティーンルックが行ったイベントだ。このイベントは読者がGSアイドルから年賀状がもらえるというもので、自分の好きなアイドルをハガキに書いて申し込むと、そのアイドルから年賀状が届くという、言わばGSアイドルの人気投票ともいえるものだった。結果、申し込みの最も多かったのはダントツでジュリー。その次がピーとトッポ。4番目にショーケンが登場するが、その次が僅差でタローという結果で、もはやグループ同士が人気を競い合う背景など存在しなくなっていた。GSというブームは68年にはタイガースの、もっと言えばジュリーのブームに変わっていたと言える。それを反映して出されたのが、近代映画誌に掲載された渡辺プロの社長のコメントだ。彼は1969年のプロダクションの方針として、タイガースをジュリーとそのバック・バンドにする企画を発表している。その線にそぐわないトッポは解雇され、タイガースはバンドとしての体を成さなくなった。
 1970年に大阪万博が開催され、副社長の渡辺美佐が委員を務めたため、タイガースの寿命は2年伸び、その後スパテンタイガースと呼ばれたPYGに引き継がれるが、このプロセスは歌手・沢田研二が井上堯之バンドという専属バンドを持つための回り道でしかなかった。そして最強のバック・バンドを持ったジュリーは、再び熱狂の中心に躍り出る。当時「歌手は男子一生の職ならず」と言われ、人気のピーク時に稼ぐだけ稼ぎ、それを元手に人気が落ちると引退して別の商売を始めるというのが一般的な歌手の在り方だった。だが、このトレンドに真っ向から異議を唱え、歌手を貫くと宣言していたのが他ならぬジュリーだった。彼はそれを有言実行し、その結果、2013年にザ・タイガースは完全復活した。今や往年を知るファンにとって、ザ・タイガースのアニバーサリーは1971・1・24から2013・12・27に変わったに違いない。