ファンにとって、いやファンのみならずザ・タイガースというグループをよく識る者にとって、2011年9月8日東京国際フォーラムを皮切りに始まった「沢田研二LIVE2011〜2012」は、かつてない驚きと期待と興奮によって迎えられたはずだ。 1971年1月24日の日本武道館での解散コンサートの後、悲痛な手記を残しミュージック・シーンから完全に姿を消したドラムスの瞳みのるが、四十年の歳月を経てステージに帰って来たのである。グループ解散後十年を経過した1981年、日劇最後のウエスタン・カーニバルがキッカケとなり、翌82年に再結成された「ザ・タイガース同窓会」に瞳の姿はなかった。この時、芸能界を頑なに拒絶していた瞳が再びステージに立つことなど誰が想像し得ただろうか。
 今回のライブ・ツアーの最終日である2012年1月24日、日本武道館のステージで沢田研二は次のように語った。「1月24日は私達にとってはとても大切な日です。今日の日、本当はタイガース全員でこの武道館に立ちたかったです」そして加橋かつみが参加しなかったことに触れ、「決して、でも僕はあきらめてはおりませんし、タイガースのメンバー全員がもう一度、全員で集まってやりたいと思っていると僕は信じております。僕たちは命のある限り全員そろってザ・タイガースです。近い将来それが実現することを心から願って、皆さんにもぜひ待って頂きたいと思います」
 沢田にとって「ザ・タイガース」は、彼自身が還暦コンサートで語ったように、夢を見ることのない自分を夢の中に連れて行ってくれた「宝物」だったのだろう。思えばザ・タイガースは、瞳、加橋、森本、岸部の四人の幼馴染で作られたアマチュア・バンドに、僅かばかり先にプロの世界に身を置いていた沢田が参加して出来たグループだった。当時は今と違ってエレキ・ギターとロング・ヘアーは不良の象徴とみなされ、大衆音楽の主流はあくまで「歌謡曲」であり、洋楽の中でもロックはキワモノにすぎなかった。また「歌手は男子一生の仕事にあらず」という認識があり、人気のピークを過ぎた歌手は別の仕事に就くのが普通だった。そんな中で、夢を見ることのない男だった沢田は、歌手という職業を選択した自分自身に絶えず厳しい目を向けていたに違いない。それは、デビュー曲「僕のマリー」が発売された時、これが最後の一枚になるかもしれないとジャケットに「記念すべきこの一枚」と書き、一度も針を落とさず保存していたというエピソードからも伺える。 だが結果としてザ・タイガースはグループ・サウンズという大ブームを作り、プロダクションやレーベルに商業的成功をもたらした。そして沢田はソロとなってから「ザ・タイガース」以上のブランドを創り上げ、自らがメジャー・シーンを制覇することで、洋楽の中で最もキワモノ扱いされていたロックを大衆化させたのである。
 前述の還暦コンサートで沢田は「タイガースで夢の中に連れて行ってもらってから、ずっと夢の中に居る」と語った。それはデビュー当時「男子一生の仕事にあらず」と言われていた歌手という仕事を、職業としてずっと続けていることへの彼なりの偽らざる思いなのであろう。だが沢田の存在がある限り、彼ばかりでなく、彼のファンもまた夢の中に居続けることが出来る。そしてその両者の夢が相乗効果を生み、巨大なエネルギーとなってミュージック・シーンを揺り動かした時代が1970年代だった。