ザ・タイガースがGSの頂点に登り詰めた頃、マスコミは「ブルー・コメッツとスパイダースが敷いた線路の上をタイガースが走った」と評した。ブルー・コメッツもスパイダースも1960年前後に生まれたグループであり、当初はどちらもロカビリー・ブームに登場したボーカル・プラス・インストゥルメンタル・グループで、フロントには専属シンガーがいた。その後、時を同じくしてスパイダースはリバプール・スタイルに変わりブルー・コメッツはバック・バンドから自ら歌うバンドへと変わって互いにヒット曲が生まれる。そうした流れがあってグループ・サウンズというカテゴリィが生まれ、その流れに乗ったタイガースが短期間で果実を得たというのがマスコミの論調であった。だがグループ・サウンズという言葉が生まれたのは、タイガースの登場によって熱狂的なブームが到来したからである。そしてその本質はサウンドではなくアイドル・ブームであり、立役者は言うまでもなく沢田研二だった。換言すればザ・タイガースに沢田研二がいなかったらGSブームは生まれなかっただろうし、反面、沢田一人に人気が集中し過ぎたためにグループという概念が喪失し、ブームが短命に終わったことも事実であった。前述したように1960年代以降の大衆音楽においてブームの牽引者は常にアイドルであり、沢田もまたその役割を果たしたに過ぎなかったのだ。だが沢田は単にGSブームを牽引しただけで終わらなかった。沢田によって従来のアイドル像が一変したことは前述したが、フォロワー達のリスペクトも含めて、彼が大衆音楽に与えた影響はGS以後のほうが大きかったのだ。しかもそれはGS時代と同じように、彼の「サウンド」によってではなく、沢田研二という「存在」によって成されたのである。それ故沢田は常に大衆の好奇の目に晒される宿命を負った。だが沢田の凄さは、並の人気歌手であれば一瞬にして潰されるような攻撃を受けても、それを自らのエネルギーに変えてその都度パワーアップし、ヒット曲を量産し続けたことだ。タイガース時代にはNHKやコンサート会場のシャットアウト、PYGにおいてはアンチ・アイドルからのバッシング、そしてソロ・シンガーになってからは暴力事件に絡んだライバル陣営の沢田潰しなど、スキャンダルの集中砲火を浴びながらもスターとしての存在感を保ち続けた歌手は彼を於いて他にいない。とりわけ1976年の新幹線車中での暴力事件は、レコード大賞へのチャレンジを続けていた沢田にとってライバル陣営が仕掛けた巧妙なスキャンダルだった。
 1973年、沢田は「危険な二人」のビッグ・ヒットで大衆からレコード大賞の本命として支持されるが、五木ひろしに受賞させようとする日本作曲家協会の画策によって大賞候補から外される。翌年「追憶」がヒットし、この年も有力視されるが森進一に先を越され、翌1975年には「時の過ぎゆくままに」で3年連続オリコン・チャート1位を達成するも、賞レースではまたしても蚊帳の外に置かれてしまうのだ。そしてこの年の暮れ駅員に対する暴力事件を起こした沢田は、ライバル陣営に格好の火種を与えてしまう。翌年早々、沢田のブレーンは、事件を払拭し改めて賞獲りに乗り出すため、「沢田研二をはげます会」を開催する。この会には業界の著名人や内田裕也をはじめ、タイガース時代犬猿の仲だった加橋かつみも出席。二人が仲良く談笑するシーンが報じられ、沢田が新しい一歩を踏み出したことを内外にアピールしたのだった。だが依然地方では沢田に対するバッシングが続いていることを知ったライバル陣営は、沢田にもう一度事件を起こさせ、レコード大賞はおろか、その歌手生命までも絶ってしまおうと新幹線車内での暴力事件を画策する。術中に嵌った沢田は起訴処分こそ免れるが、プロダクションから1ヶ月の謹慎を命じられ、結果1976年を棒に振ってしまうのである。普通の人気歌手であればこれで終わりである。だが沢田は翌1977年、「勝手にしやがれ」の大ヒットで見事に復活する。そして、またしてもライバル陣営が仕掛けた「大麻疑惑」をはね除け、この年悲願のレコード大賞を受賞するのだ。以後、沢田の呼称はスターの上にスーパーが冠せられ、熱狂的なファンに加えて熱心な沢田ウォッチャーも出現することになる。だが移り気な大衆音楽の世界が「サウンド」を中心に動き始めた時、常勝ジュリーにも変化が訪れるのだ。