Page0001男前に生まれた者にとって、時として同世代の男達は全てが敵となる。「てめエ、カッコつけやがって!」と正面から切り込んでくる奴は意外と手名付け易いが、始末に悪いのは「いいよナ、お前は」と僻む奴らだ。男の嫉妬は女の数倍恐ろしい。だから本当の男前は無益な争いから身を守るため決して自分から主張しない。だが主張しなくても自らの存在感を打ち消すことは絶対にできない。どのような群れの中にいようと輝いてしまう宿命を持っているからだ。幼年時代に女みたいで嫌だと自らのフェイスに傷をつけた一人の男前は、ある日それが己にとって強烈な武器であることを自覚する。そしてその武器を活かすために処世を身につけると、群れに混じって大衆の眼前に現れるのだ。
 沢田研二は、当時キワモノ扱いされた不良の群れに属するグループの一員としてデビューした。だが多くのアーティスト達がファンからエネルギーを貰いながら次第にオーラを身に着けてゆくのと違って、沢田は大衆の前に登場した時から既にオーラを放っていた。1966年11月22日、ブラウン管を通して初めて沢田を観た大衆の多くは、それまで見たこともないような真新しい「カッコよさ」を体験したに違いない。だが読売ジャイアンツが球界の覇者であった時代に、「関西出身だからタイガース」という、まるで冗談のように名付けられたグループの中にいて、後に彼が大衆音楽を征するスーパー・アイドルになろうとは、この時誰が想像できただろうか。
 沢田研二が当時のアイドル像を根底から覆し「無敵のジュリー」となるのは、彼が類い希なルックスを持ちながら、決してそれのみに頼ることがなかったからである。後にインタビューで、彼はデビューの折、近所のレコード店で買った「僕のマリー」に「記念すべきこの一枚」と記した後、針を落とさずに保存し「当時はこれが最後の一枚になるかもしれんと思った」と語っている。歌謡曲が王道であった当時の音楽シーンを慎重に見据えていた保守的な男は、自らが男前としての処世を身につけてゆく過程で培ってきたノウハウを戦略として組み立ててゆく。沢田は常に大衆の側に立って、彼等が自分に何を望んでいるか、そしてその期待にどう応えるか、またどうすればより多くのファンを自らのステージに惹きつけることができるかを緻密に計算していたのだった。
 ザ・タイガースが、数あるグループ・サウンズの中でまさにその頂点に登り詰めようとしていた1968年1月のウエスタンカーニバル。そこに沢田のプロ意識を垣間見ることの出来る貴重なグラフがある。月刊ヤングミュージック1968年3月号の附録「魅惑のウエスタンカーニバル’68」に納められているワン・ショットだ。リハーサル中、沢田は群れから外れて一人マイクの立ち位置を決めている。コメントにはこう書かれている。
「1月15日ウエスタン・カーニバル初日、午前3時から通しげいこ(実際のふりつけどおり最後のショーの構成を練習)が行われた フィナーレの「ロック天国」の練習にはいり全員の動きと音があわず音楽担当の井上忠夫は苦闘した そして出演者全体もかなりだれかかってきた そんなときジュリーだけはただひとり静かにマイクの位置を決めていた
ステージのはげしい動きのなかにみせるジュリーの物静かな態度は人のこころをひきつけるなにものかがあった」
 萩原健一は著書「ショーケン」の中で、自らと比して沢田を次のように評している。
「おれはバンドをやるとき、自分もバンドの一員だと思っている。バンドありきで、自分がある。けど、沢田にとってのバンドというのは、要するに自分のバックバンドだから。」
加橋の脱退後、ザ・タイガースは沢田のバックバンドになった。だがそれは沢田にとって、男前として生まれた責任を当然に果たした結果に過ぎなかった。おそらく沢田は自負していたはずだ。「ファンはタイガースの音を聴くためにやって来るのではない。俺のステージを観るためにやって来くるのだ。」と。