戦後大衆音楽の世界で最初のアイドルとなったのは、言うまでもなくクィーン美空ひばりだった。彼女がブームを作った1950年代は、ラジオからテレビへとメディアの覇権が遷る時代で、歌って踊れて芝居の出来る彼女は大衆の人気の的となった。一方、男性歌手においては歌の上手さが求められ、50年代の人気投票を見ると初頭のキングは小畑実、その後、春日八郎、三橋美智也と続く。だが50年代も後半になるとリスナーの低年齢化が進み、プレスリーを始めとする洋楽に触発された若者達はジャズ喫茶にエネルギーの行き場を求める。洋楽がすべて「ジャズ」と呼ばれていた当時、この若者達のエネルギーは稀代の興行師渡辺美佐によって「ロカビリー」というブームに仕立てられるのだった。しかし、ロカビリーがモノマネにすぎなかったことと、当時の日本人の美意識に反した「不良性」を持っていたため、ブームは一瞬にして終末を迎えてしまう。大衆が望んだのはあくまでも歌謡曲であり、そのメイン・ストリームに乗るティーン・エイジャーこそが、次のブームの担い手でなければならなかったのだ。
 そんな大衆が待ち望んだアイドルが、1960年代の幕開けとともに登場した橋幸夫だった。彼は三橋美智也に代わって、男性で初めてのティーン・エイジャー歌手としてキングの座に着く。同時期、ブームの去ったロカビリー歌手の中から不世出のエンターティナーが登場する。1985年に不慮の事故死を遂げる坂本九である。彼は万人に愛されるキャラクターで、普及し始めたテレビの申し子のように、お茶の間に欠かせないアイドルとなり、1963年には「上を向いて歩こう」で全米第1位の金字塔を打ち立てる。歌謡曲の橋幸夫とポップスの坂本九−。この二人の共通点は、どちらも九人兄弟の末っ子だったことに加えて、真面目で品行方正なイメージを絶えず大衆に向けてアピールし続けていたことだった。当時の一般大衆は、「清く正しく美しい」優等生のイメージをアイドルに求めていたのだ。そしてそのイメージは美意識となり、その美意識を具現化したものが「学生服」だったのである。
 1963年、坂本九が全米制覇した同じ年、美意識の象徴を身にまとったティーン・エイジャーがデビューする。ビルボードとキャッシュ・ボックスで1位を獲ることがどんなに凄いことか理解も想像もできなかった当時の大衆の目は、坂本九からこの美意識を纏った新しいアイドル、舟木一夫に向けられるのだった。
 舟木の登場は大衆音楽の世界に「青春歌謡」と呼ばれるブームをもたらした。舟木の成功によって、彼の髪型や学生服姿を真似たフォロワー達が続々とデビューする。マスコミは舟木と橋、そして舟木の翌年にデビューし人気者となった西郷輝彦を加えて、彼等に歌謡御三家の称号を与えブームを盛り上げるのだった。当時の模様を西郷輝彦が芸能生活35周年をむかえた折に、産経新聞において次のようにコメントしている。
「本当は坂本九さんの線に行きたかったのに、かれらの仲間に入るのだからと、『高校  三年生』や『潮来笠』を練習でよく歌わされました。涙を流し、声を出し過ぎて吐い  たりもしましたっけ。ロカビリーやジャズ、ポップスにあこがれたのだから一連の青  春歌謡に抵抗がありました。」
 自らの意志とは裏腹に、抗うことの出来ない強烈なブームに乗せられた西郷の思いがひしひしと伝わってくる。また同時に、当時の大衆がいかにポップスよりも歌謡曲を支持していたかが窺い知れる貴重なコメントだ。
 こうして舟木一夫は、日本人の価値観の中に脈々と流れる美意識を自らが具現化することでアイドル像を確立し、橋に変わってキングの座に着くのである。当時、各地で行われていた歌謡ショーでは、「優等生」舟木をはじめとする青春歌謡歌手達の前座を、不良の象徴とされた「長髪でエレキを持った」スパイダースが務めていた。ビートルズの来日を黒船来襲の如くヒステリックに迎えた保守的な一般大衆にとって、不良の音楽はキワモノ以外の何者でもなかったのだ。真のアイドルとは詰め襟の学生服を着て青春歌謡を歌うものだと、誰もが信じて疑わなかったのである。だが、それから1年も経たないうちに、不良の音楽の中から新しいアイドルが誕生する。1966年11月22日、僅か一瞬の間であるが、ブラウン管を通して一般大衆の目の前に現れた沢田研二は、それまでの日本人の美意識を根底から覆してしまうスーパー・アイドルとなるのである。