1971年7月21日、PYGの第二弾シングル「自由に歩いて愛して」がリリースされる。この曲はオリコン・チャート最高位24位と前作を上回るが、スーパー・グループとして期待された結果からは程遠く、彼等はまるでミュージック・シーンからスポイルされたかのように、急速にその存在を喪失させてゆく。プロダクション・サイドでは彼等に対する経済的負担もさることながら、沢田や萩原健一をメジャー・シーンから消してしまわないための新たな戦略構築が迫られていた。元々映画監督を志向していた萩原健一は、翌72年公開の松竹映画「約束」の助監督として活動の場を与えられるが、主演男優の降板により急遽自らが主演に抜擢され、本格派俳優としての第一歩を踏み出すことになる。
一方沢田は、71年11月に本人名義としては初のソロ・シングル「君をのせて」をリリース。この曲は宮川秦氏が作曲を担当、オーケストラをバックにした本格的なバラードで、それまでのPYGの楽曲とは対照的な作品であった。今ではカラオケに持ってこいの曲だが、当時は沢田がバラード歌手へと路線変更したかの如き印象を大衆に与え、結局ヒットには繋がらなかった。だが翌72年3月にリリースした第二弾「許されない愛」が、ロック・シンガー沢田研二の誕生を促すエポックとなる。この曲は作曲を加瀬邦彦が担当、ステージでは井上堯之グループと名を変えたPYGのメンバーがバックを務める中、絶叫する沢田のパフォーマンスがタイガース時代を彷彿とさせ、30万枚を越すヒットとなる。その後「あなただけでいい」「死んでもいい」「あなたへの愛」と順調にヒットを飛ばした沢田は、翌73年4月にリリースされた「危険な二人」のビッグ・ヒットでロック・シンガーとしての地位を不動のものにするのだ。タイガース時代にオリコン第一位を達成した「シー・シー・シー」と同じ作詞・安井かずみ、作曲・加瀬邦彦のコンビによるこの曲は、90万枚を越すセールスでオリコン・チャートのトップを独走。井上堯之の拗ねるようなギター・リフで始まり、沢田が派手なステージ・アクションで歌う軽快なロックン・ロール・ナンバーがオリコンを制覇したことは、明らかに沢田が大衆にロックを受け容れさせた証しとなった。この大ヒットによって彼は、この年の日本歌謡大賞、レコード大賞大衆賞を受賞し、スーパー・スターへの第一歩を踏み出す一方、当時ロックの専門誌だった月刊ミュージック・ライフ誌の人気投票で74年、75年と二年連続で男性シンガー部門の第一位を獲得(因みに第二位は二年連続で井上陽水)。ついに沢田は、我が国で最初にロックを大衆化させたアーティストとなったのだった。
かつてビートルズの成功が革命的だと言われた理由のひとつに、彼等が当時のエンターテイメントの常識を変えたことが挙げられた。彼等の登場前は、エンターティナーとして認知されるためには歌、踊り、芝居の三要素が不可欠であり、その集大成としてミュージカルの存在があった。我が国でも60年代初頭に大ヒットした「ウエスト・サイド物語」に影響を受け、タレント達は少し人気が出てくると、異口同音に将来の目標をミュージカルに置いたのだった。だがビートルズの成功は、踊りや芝居ができなくても楽曲のみで十分に大衆から支持されることをことを証明し、全世界にロックを認知させたのである。そして我が国では、その担い手としてグループ・サウンズがなるはずであった。しかしマスコミやプロダクションが彼等に音楽性よりもアイドル性を求めたため、結局彼等を一過性のブームに終わらせてしまったのだ。沢田研二はグループ・サウンズが果たすべきだった「ロックの大衆化」という使命を自らの宿命として一身に背負い、70年代のミュージック・シーンを疾走するのだった。