「時代の覇者は次代の覇者にはなれない」というマーケティングのセオリーを具現化するかのように、GSの覇者達は次のブームの覇者にはなれなかった。
PYGが踏み込んだニューロックの世界で彼等を待っていたのは、かつての黄色い声援ではなく、野次と罵声と空き缶の襲来だった。
当時反体制のシンボルだったニューロックの支持者達にとって、ロックの何たるかを理解できない少女達のアイドルとして既成のメディアの中でもて囃されていた彼等の存在は、到底受け容れることの出来ない体制側の象徴だったのだ。だが後々まで語り種となる日比谷野外音楽堂でのコンサートで、彼等に向かって投じられた空き缶の中には、純粋にロックを信奉する支持者達に混じって、熱狂的な瞳ファンの怨念の礫も含まれていたのだった。
同時期、彼等がもと居た場所では、和製ポップスに飽きた大衆の間で、新たなスターが誕生していた。
幼い頃から父母と旅回りをし、「十五、十六、十七と、あたしの人生暗かった」と歌う藤圭子と、中学卒業後、集団就職で数え切れないほど職業を替え、魂から絞り出すような歌声でメジャー・シーンに登場した森進一である。暗い過去から「苦節〜年」を経て脚光を浴びるようになった二人の歌う演歌は、当時「怨歌」と呼ばれ、多くの大衆の支持を受けたのだった。
そしてこの「苦節〜年」というキーワードは、日本が敗戦の焦土から立ち上がり、漸く近代国家の仲間入りを果たすまでに至った当時の情勢と重ね合わせられ、「苦労してのみ成功が許される」という定義をサクセス・ストーリーに与える。一方で高度経済成長を支えた大量生産主義は60年代の終焉と共にその綻びを見せ始め、加工重視から素材重視へ、作り物から本物へと価値観がシフトされてゆく。
このような時代のトレンドは歌謡界にも波及し、メディアによって粗製された俄アイドルは影を潜め、菅原洋一や由紀さおりといった実力派歌手達が次第に脚光を浴びるようになる。そしてこの現象は、アイドルの象徴だったザ・タイガースが解散し、同時にPYGが誕生した1971年に顕著となった。
この年の春、GS全盛時代に全く認知されなかったワンダースのギタリスト尾崎紀世彦の歌う「また逢う日まで」が95万枚を売り上げるビッグ・ヒットとなり、その年のレコード大賞をはじめ各賞を総ナメにする。この原曲は、ズー・ニー・ブーの「ひとりの悲しみ」であり、大ヒットによって歌い手ばかりでなく楽曲もが陽の目を見ることとなった。また夏をむかえる頃には、デビュー後、鳴かず飛ばずで幾度も芸名を変えていた五木ひろしが、最後のチャンスを掛けて挑戦した歌謡コンテストで優勝し、「よこはま・たそがれ」を大ヒットさせる。年末になるとスイング・ウエストのボーカリストだった湯原昌幸がGS時代にリリースした「雨のバラード」をリメイクし、60万枚を超える大ヒットでオリコン・チャート1位を達成。マスコミはこの三人に、「苦節〜年、いま俺たちの陽が昇る」と題して華々しいスポットを当てるのだった。
こうして70年代初頭のミュージック・シーンは、新たな時代を迎えようとしていた。ロックの新天地を求めて出発したPYGにとって、もはや彼等を受け容れる場所は何処を捜しても見つからなかったのだった。
PYGが踏み込んだニューロックの世界で彼等を待っていたのは、かつての黄色い声援ではなく、野次と罵声と空き缶の襲来だった。
当時反体制のシンボルだったニューロックの支持者達にとって、ロックの何たるかを理解できない少女達のアイドルとして既成のメディアの中でもて囃されていた彼等の存在は、到底受け容れることの出来ない体制側の象徴だったのだ。だが後々まで語り種となる日比谷野外音楽堂でのコンサートで、彼等に向かって投じられた空き缶の中には、純粋にロックを信奉する支持者達に混じって、熱狂的な瞳ファンの怨念の礫も含まれていたのだった。
同時期、彼等がもと居た場所では、和製ポップスに飽きた大衆の間で、新たなスターが誕生していた。
幼い頃から父母と旅回りをし、「十五、十六、十七と、あたしの人生暗かった」と歌う藤圭子と、中学卒業後、集団就職で数え切れないほど職業を替え、魂から絞り出すような歌声でメジャー・シーンに登場した森進一である。暗い過去から「苦節〜年」を経て脚光を浴びるようになった二人の歌う演歌は、当時「怨歌」と呼ばれ、多くの大衆の支持を受けたのだった。
そしてこの「苦節〜年」というキーワードは、日本が敗戦の焦土から立ち上がり、漸く近代国家の仲間入りを果たすまでに至った当時の情勢と重ね合わせられ、「苦労してのみ成功が許される」という定義をサクセス・ストーリーに与える。一方で高度経済成長を支えた大量生産主義は60年代の終焉と共にその綻びを見せ始め、加工重視から素材重視へ、作り物から本物へと価値観がシフトされてゆく。
このような時代のトレンドは歌謡界にも波及し、メディアによって粗製された俄アイドルは影を潜め、菅原洋一や由紀さおりといった実力派歌手達が次第に脚光を浴びるようになる。そしてこの現象は、アイドルの象徴だったザ・タイガースが解散し、同時にPYGが誕生した1971年に顕著となった。
この年の春、GS全盛時代に全く認知されなかったワンダースのギタリスト尾崎紀世彦の歌う「また逢う日まで」が95万枚を売り上げるビッグ・ヒットとなり、その年のレコード大賞をはじめ各賞を総ナメにする。この原曲は、ズー・ニー・ブーの「ひとりの悲しみ」であり、大ヒットによって歌い手ばかりでなく楽曲もが陽の目を見ることとなった。また夏をむかえる頃には、デビュー後、鳴かず飛ばずで幾度も芸名を変えていた五木ひろしが、最後のチャンスを掛けて挑戦した歌謡コンテストで優勝し、「よこはま・たそがれ」を大ヒットさせる。年末になるとスイング・ウエストのボーカリストだった湯原昌幸がGS時代にリリースした「雨のバラード」をリメイクし、60万枚を超える大ヒットでオリコン・チャート1位を達成。マスコミはこの三人に、「苦節〜年、いま俺たちの陽が昇る」と題して華々しいスポットを当てるのだった。
こうして70年代初頭のミュージック・シーンは、新たな時代を迎えようとしていた。ロックの新天地を求めて出発したPYGにとって、もはや彼等を受け容れる場所は何処を捜しても見つからなかったのだった。
コメント
コメント一覧 (6)
ミクシィのタイガースのコミュニティで知って、やって来ました。
初めから遡って一気に
昔主人もアマチュアでバンドをしていたビートルズ世代ですが、
その主人がPYGの音楽性は、時代より1歩も2歩も早すぎたんじゃないかと言っておりました。
今聞いてもまったく遜色ないですものね。
どうなんでしょう?
また続きを楽しみにしております。
ヨーコさんのご主人の仰るとおり、確かにpygは時代を先取りしていたと思います。「花・太陽・雨」も「自由に歩いて愛して」も時代を超えてカバーされていますし。当時は大衆もマスコミも彼等をイメージ先行で捉えていたため、正当な音楽的評価がなされなかったことと、制作サイドがジュリー、ショーケンというビッグ・ネームに商業主義的成功を早期に期待しすぎたのでしょう。
その後ジュリーの活躍によってロックが大衆化されますが、本人も言っているように、pygは彼の成功に不可欠なプロセスだったのですね。
僕は考えただけでゾーッとします。
ただ、一部時系列が?な部分があります。
PYGが活動開始した71年に、森進一や藤圭子が台頭してきたように書かれてますが、藤圭子は69年からは大ヒットを連発し既にトップスター、森進一に至ってはタイガースよりも早いデビューで、若い子からのアイドル的人気は無いものの日本歌謡界の大スターでした。由紀さおりは69年には夜明けのスキャットで大ヒットを出し、菅原洋一も70年にはレコ大を獲得してますから、PYGの誕生と時の絡みは無いのでは?
尾崎紀世彦だけが71年ですから、それに当たるかも知れませんが。
象徴的だったのは前川清と藤圭子の結婚ですね。
でも翌72年には二人は離婚し、この年からまた新御三家を軸としたアイドル・ブームが幕を開けます。
藤圭子や森進一という演歌スターが誕生した」
と言うのは時系列間違ってませんか?
上記は昭和46年(1971年)ですよね?
森進一はタイガースより早くにデビューして
しっかり大ヒット歌手としてその地位を築いていたし、
藤圭子がデビューしたのもタイガースの勢いが
弱まってきた昭和44年ですよ。
同じく凄いインパクトだったカルメンマキや
由紀さおりも昭和44年です。
昭和46年1971年ではないですよ。
むしろその頃、藤圭子の勢いは薄れてきてる頃ですが。