Page0001 (3)
ビューティフル・コンサートから遡ること約二週間前の1月11日、日比谷の音楽喫茶「メイツ」で新グループPYGのお披露目記者会見が行われた。
この席上で沢田は「回り道だと言われても、やるだけです。」とその決意を語っている。彼にとってPYGへの参加は、ソロとして独立する前にやらねばならなかった、いや是非ともやりたかったセッションだったのだ。
かつてタイガース全盛時代に、沢田は「一人前の歌手として認められるように努力している」と言った内容の発言をよく口にしていた。その度にマスコミは「ジュリー独立」をまことしやかに書き立てたのだが、彼の真意は「独立」にあったのではなく、自らがアイドルとして人形のように扱われていることへの反発と同時に、他のメンバーに向けて、お互いが一人前のプレイヤーとして認められるように努力することを促したコメントだったのだ。そんな彼にとって、タイガースではついに実現することの出来なかった願いが、ようやく叶えられたのである。
60年代も後期になると、アル・クーパーを始め海外のロック・ミュージシャン達の間でセッションがブームになっていた。このような海外のムーブ・メントにいつも敏感だったのが、マージー・ビートを日本に持ち込んだロック界の草分け、ムッシュかまやつだった。彼は同じグループの井上尭之やカップスのミッキー吉野等とユニットを作り日野皓正等とセッションしたり、また70年8月に田園コロシアムで行われたタイガースの野外ライブにゲスト参加したり、岸部兄弟のアルバムに楽曲を提供したりと、自らのグループの枠を超えて幅広く活動していたのだった。新グループ結成にあたり、コーディネーター役を担った中井國二氏は、そんな彼に白羽の矢を立て、井上尭之と大野克夫に新グループへの参加を促すよう依頼したのだった。後日ムッシュは「自分もメンバーに加えてもらえると思っていたのに、蚊帳の外に置かれて悔しい思いをした」と語っている。だがこのコメントは、彼の音楽に対するスタンスからみれば頷ける部分もあるが、ミュージシャンとしての存在感を考えれば多分にリップ・サービスも含まれているように思える。
さて、ナベプロはPYG結成に当たり、新たに「渡辺企画」というチームを立ち上げ、全面的にバックアップする体制で臨んだ。まさにメンバーにとって「鳴り物入りの」再デビューとなったのである。
音響機材のセッティングからレコーディングに費やした時間まで、あくまでも彼等主導でプロデュースされたデビュー・シングル「花・太陽・雨」は、1971年4月10日にリリースされた。
「よろこびの時、わらえない人」という哲学的な歌詞で始まり、サビでは井上尭之のギター・ソロが魂に響く、後世に残るはずの名曲は、なんとオリコン・チャート最高位30位止まりだった。その背景には60年代とは完全に異質な、新たな時代を迎えようとしていた我が国のミュージック・シーンが大きく横たわっていたのだった。