70年12月7日、日刊スポーツ誌に「タイガース解散」が報じられる。その日、ファンからの問い合わせの電話が殺到する中、ナベプロはマスコミに対し、あくまでも「解散」ではなく、タイガースという器を残したまま、個人活動を優先させる方針であることを発表する。だがこのナベプロのコメントに、瞳はマスコミを通じて自らの怒りを爆発させるのだ。瞳にとっては、5月にメンバー全員で話し合った結果解散を決定し、GSの王者に相応しい散り方をしようと決めていたはずだったのに、いつのまにか自分の知らないところで別の筋書きが出来ていたのだった。それだけではない。「他のメンバーは音楽活動を続けるが瞳は引退する」といった内容が、公言もしないのにまことしやかに語られていたのである。「個人活動を優先させるがタイガースという器は残し、定期的にグループ活動を続ける」ことと「瞳は引退する」こととが同時に語られている理不尽さに、彼の憤りはプロダクションのみならず、自らを蚊帳の外に置いた他のメンバーにも向けられるのだった。そして彼は以前にもまして解散を強く主張するようになる。
だがこの瞳の主張がマスコミに報じられたことは、ナベプロにとっては願ったり叶ったりだった。「個人活動を優先し、タイガースの名は残す」というナベプロの方針は、グループ存続を願う熱狂的なファンの神経を逆撫でしないための絵空事に過ぎず、彼等にとっては、沢田の新グループさえ出来てしまえば、タイガースの存在など必要なかったのだった。また新グループ誕生とタイガースのリセットは、早ければ早いほどコストも少なくて済む。だが一方で彼等にとってのトップ・プライオリティは、タイガースが人気の頂点に立ってから一貫して「スター沢田研二」に傷を負わせないことであり、「タイガース消滅」の原因と沢田との間に、僅かでも関わり合いを持たせることは極力避けたかったのだ。そこへ瞳がマスコミを通じて強烈に解散を主張してきたのである。ナベプロにとっては「瞳がそこまで言うのなら解散もやむを得ない」という「タイガース解散」への大義名分が出来上がる。そして「当初タイガースを存続させようとしていたのに、瞳が強引に解散を主張したため、やむなくタイガースは解散することとなり、結果、沢田は新グループでの活動を余儀なくされてしまった」というシナリオが完成し、「タイガース解散=沢田の新グループ誕生」が誰憚ることなく実現するのである。
以後、瞳はあたかもタイガース解散の張本人の如くに扱われる。解散コンサートにいたっては、その日程を決定したのも瞳であれば、加橋をステージに登場させるプランに猛反対し止めさせたのも瞳、またコンサート終了時に沢田の新グループのお披露目を行うプランを「葬式と結婚式とをいっしょにはやれない」と中止させたのも瞳であるといったように、彼一人が「タイガース解散」を仕切ったかのように報じられるのだった。
そして1970年も押し迫った12月29日、ナベプロ5階のタレント室に新グループのメンバーが集められた。沢田を含め、井上堯之、大野克夫、萩原健一、大口広司、岸部修三の6名。新グループの名は「PYG」と名付けられるのだった。