69年12月15日、沢田にとって初のソロ・アルバム「ジュリー」がリリースされる。これを皮切りに、70年4月には初の単独レギュラー番組「虹のお祭り広場」(この番組の主題歌である「思い出はついてくる」は、作詞を石坂浩二氏、作曲は沢田本人の手によるもの)がスタート、そして7月からはその後番組として「あなたとジュリー」が始まる。もはや誰もが「タイガース解散=ソロ・シンガー沢田研二誕生」は時間の問題と見ていた。しかしアルバムの付録ポスターにタイガースのメンバーを登場させたように、沢田自身は自らがソロ・シンガーとして独立することを頑なに拒否し続けた。当時彼はマスコミに対し「歌がヘタだと言いながら一人にして恥を掻かせるのか」と誰に向けて言っているのか解らない発言をしている。だが当時の評論家達の論調を見ると、GSそのものに対する音楽的批判はあっても、沢田個人の歌唱力についての批判は何処を捜しても見当たらない。おそらく沢田にとってはグループのボーカリストでありながら「花の首飾り」以降、歌唱力の面においては加橋にスポットが当てられ、その後「廃墟の鳩」がA面でリリースされたことも含めて、プロダクションや制作サイドに向けて「自己の存在意義」を問うた発言であったに違いない。だが一方で「コブシなんか全然まわらんもん」と言っているように、当時の歌唱力の物差しが演歌や歌謡曲を基準にしていた背景もある。一世代前のロカビリー歌手達が人気が出始めると即座に歌謡曲を歌い出したり、ポップス志向だった西郷輝彦がプロダクションの方針で無理矢理路線変更させられたりしていたことからも、当時のメイン・ストリームはポップスではなく歌謡曲であり、ソロのロック・シンガーが成功した事例はなかったのだった(結局は沢田がそのパイオニアとなるのだが)。ナベプロ・サイドとしてもソロ・シンガーとしての沢田の方向性を形付ける過程で、十年に一度の大スターと言われる逸材を天高く飛翔させるための新しいスプリング・ボードの必要性を感じていた。その存在は音楽性においては言うに及ばず、話題性においてもタイガースを凌ぐものでなければならなかったのだった。
10月に入ると、タイガースの年内解散が内定する。だがこれはあくまでも「内定」であり、外部には一切公表されなかった。後日、某音楽評論家が、9月一杯で契約が切れるのに、ナベプロが年内まで解散を引き延ばした理由は、沢田を除く他のメンバーの処遇が決まるまで温情をかけて待ってやったのだとコメントしたが、これは事実ではない。なぜならこの年の5月に、ナベプロはメンバーから、グループ全員で話し合った結論として「解散」の申し入れを受けているからだ。この時点でそれぞれのメンバーは、いや正確に言えば「ナベプロが既に処遇を決めている」沢田を除く他のメンバーは、解散後の青写真を持っていたのだった。それでは何故、解散を年内まで引き延ばしたのか?それはナベプロ側で、沢田をサポートするための新しいグループの構想が確定していなかったからである。ナベプロとしては「タイガース解散=沢田の新グループ誕生」の図式を意図していたのだ。だがその具体化が遅々として進まぬ現状に、焦れきっていた沢田の怒りが爆発する。10月24日に行われた早大の「稲穂祭」に他のナベプロ・タレント達と一緒に単独出演した彼は、嬌声を挙げるファンに対し、詰問の後、怒鳴り散らしたのだった。
結果、中井國二マネージャーを含むナベプロ首脳陣達が考え出したのは「セッション・バンド」の構想だった。当時フラワーポット・オブ・メンやエジソン・ライトハウスで一世を風靡したトニー・バロウズの例もあり、沢田が一介のボーカリストとして参加する「スーパー・セッション・グループ」がそのコンセプトだった。
新グループのメンバーが確定するまで、ナベプロはファンの刺激を避けるため、マスコミに対しタイガースの解散を否定し続ける。クレージー・キャッツの例を持ち出し、メンバーの単独活動を優先しながら、月1回は定期的に集まり、アルバムの制作やコンサートを行うことでグループを存続させるという方針を発表し、ファンを納得させようとしたのだった。