1970年3月15日、東京オリンピックに続く我が国最大の国家イベント「EXPO70/大阪万博」が開催された。戦後の著しい経済成長の延長線上に到達したこの一大イベントによって、日本は欧米諸国と肩を並べる近代国家の一員となったのだった。
だがそのテーマとなった「人類の進歩と調和」は、マスコミを通じて「果たして人類は、進歩はしたが調和しているのか?」という議論を投げかけた。国内では重工業生産主義がもたらした公害問題やアメリカとの安全保障における基地問題が紛糾する一方、世界中のバッシングを浴び泥沼化するベトナム戦争は、資本主義そのものに内在する諸問題を人類に突きつけていたのだった。
このような世界的背景を受け、若者達の間で登場したのがロック・ミュージカル「ヘアー」だった。1967年10月29日、ニューヨーク、ダウンタウンにあるパブリック・シアターを皮切りに、日本を含め、イギリス、ドイツ、フランスなど十八か国で上演されることになるこの作品は、ベトナム戦争への抗議、性の解放、資本主義に対する嫌悪、宗教に対しての疑問等、当時のアメリカの若者達の心情がテーマとなっていた。
「万博」と「ヘアー」−。
この一見何の接点もないように思える二つのイベントに、深く関わった人物がいた。
当時の世界中のセレブ達が集うイタリアン・レストラン「キャンティ」のオーナーにして我が国芸能文化のパトロン的存在だった川添浩史氏である。
川添氏は、「万博」においては富士グループパビリオンの総合プロデューサーとして活躍する一方、長男の象郎氏がパリで遭遇した「ヘアー」を日本で上演するための仕掛人的役割りを果たすのである。象郎氏は後に村井邦彦氏が社長を務めていたアルファレコードの取締役製作部長としてユーミンや山下達郎等のアーティストを世に送り「ニューミュージック」という新しいマーケットを確立するが、この時彼とともに「ヘアー」を日本に持ち帰ったのがタイガースを脱退したばかりの加橋かつみだった。加橋と川添ファミリーとの出会いは、デビュー後間もないタイガースの衣装を川添夫人の梶子氏がデザインしたことに始まるが、その後加橋と梶子婦人との関係は衆目の知るところとなる。
だが「ヘアー」東京公演の最中だった1970年1月11日、浩史氏は肝臓癌のため五十六歳という若さでこの世を去った。「私が死んでも嘆くことなく、皆で祝ってもらいたい。葬儀は簡単にすませ、私が厄介になった親しい友達に集まってもらい、そして許されるなら黛敏郎さんに会の司会をして頂き、ザ・タイガースの演奏でもして頂ければ私は幸せである」という遺書を残し、「ヘアー」の最終公演を見ることも「万博」の開幕に立ち会うこともなく浩史氏は天国へと旅立ったのだった。
さて副社長の渡辺美佐がショー担当委員を務めるナベプロにとっても「万博」は自らの威信を賭けたプロジェクトの一つだった。とりわけ5月9日に万博ホールで開催された「全国ヤング歌謡フェスティバル」は前年から周到に準備を重ねていたイベントであった。だがこのフェスティバルで、ナベプロにとってもタイガースにとっても思いもよらないハプニングが起きるのだった。