Page0002アイドル」という言葉が日常的に使われ始めたのはいつ頃からか定かではないが、その定義が「スター」や「アーティスト」よりも、大衆にとってより身近な存在を意味するものであることには論を待たないだろう。
ザ・タイガースにあって、さしずめ沢田が「スター」であり、加橋が「アーティスト」であったならば、瞳の存在はまさに「アイドル」そのものだったと言えよう。
沢田やテンプターズの萩原健一とともに、アイドル雑誌の表紙に幾度も登場し、付録のポスターやピンナップを単独で飾り、またGS最盛期に競い合って発刊されたセブンティーンとティーンルックの両誌ともが、創刊号の巻頭グラビアに沢田とのツーショットを掲載するなど、全盛時の瞳はGS界の人気を沢田と二分していたのだった。
同じドラマーの植田芳暁やアイ高野が、ブラウン管いっぱいに自らの存在をアピールしても瞳の人気に遙かに及ばなかったのは、ルックスばかりではなくザ・タイガースというグループにかける彼の情熱が人一倍強かったからに他ならない。
デビュー前、メンバーの先頭に立ってチケットを売りさばき、デビュー後は、ファンやマスコミに対して口が重く暗いイメージの4人に代わって、瞳一人が笑顔を振りまき、茶目っ気で場を盛り上げるムードメーカーに徹していたのだった。後に加橋が「彼だけが就職が決まっていなかったので僕等を誘うのに必死だった」と、まるで自分達が瞳の巻き添えを喰ったようなコメントをしたが、厳しい家庭環境の中で孤独感に苛まれて育った瞳にとって、タイガースこそが自らの存在の証だったに違いない。
しかし純粋で、ある種潔癖すぎる瞳の一本気な性格は、海千山千が跋扈する芸能界の水に到底馴染むはずがなかった。
副社長の渡辺美佐が大阪万博のショー担当委員を努めるナベプロは、万博会場でのタイガースショーを成功させるため、頑なに「解散」を主張する瞳を監視し続ける。一方で燻り続ける「タイガース解散説」を、グループが一時的な「音楽的行き詰まり」を向かえているにすぎないように吹聴し、マスコミを通じてその原因が瞳の音楽性の低さにあるかの如きニュアンスを漂わせるのだ。そしてマスコミの論調に呼応するように、瞳を除く他のメンバーは、沢田に次いで岸部兄弟がアルバムの制作に、森本は作曲活動にと、それぞれが独自の音楽活動に乗り出すのだった。もはや瞳にとって、かつて友情の絆だったタイガースは、「裏切り者の巣」と化してしまったのだ。だが瞳を最も傷つけたのは、自らの理想を追い求めてタイガースを脱退したはずの加橋が、帰国後グループに復帰することを希望し、自らの脱退で他のメンバーが恩恵を受けたと語ったことだった。
「傷だらけのアイドル」-。
沢田が両手に鎖を巻き付け絶叫するポール・ジョーンズのヒット曲「フリー・ミー」の邦題は、まるで瞳のために用意されたタイトルのようだった。
解散後、同窓会コンサートへの誘いを拒絶した瞳に対し、沢田は「学生時代、勉強を一生懸命やる方ではなかった彼が、高校に入り直し、大学を出て、大学院まで出て教師になるとは、僕達や芸能界は彼に物凄いエネルギーを与えたことになる」と皮肉った。だがファンに対し「僕を記憶から消し去ってくれ」と悲痛な手記を残して去って行った瞳にとって、ブームの渦中にタイガースを否定した教師達と同じ立場に身を置くことが、最も彼らしい「過去との決別」の仕方だったに違いない。