岸部四郎の加入によって表向きは順調なスタートを切った新生タイガースだったが、グループ内の亀裂はもはや修復不可能となっていた。加橋除名のやり口に激怒した瞳は、加橋がパリに飛び立った2ヶ月後の5月、自らもヨーロッパ行きの旅券を手配する。思えば1964年、エンスト状態になった人見少年のバイクを、通りかかった高橋少年が簡単に直したことから物語は始まった。この二人の出会いは熱狂的なファンによってジョンとポールの出会いの如く語り継がれているが、その5年後の3月5日に物語は幕を閉じてしまったのだった。
瞳の行動を察知したナベプロは、9月一杯でタイガースを解散させることを条件に、彼の渡欧を阻止する。だがナベプロにとっては、順調に滑り出した新生タイガースを僅か半年で解散させる気など毛頭無かったのだった。
一方、グループ内の不穏な動きはファンやマスコミに知れるところとなり、6月に入る頃には「ザ・タイガース今秋、解散」の噂が流れ始めた。これに対しナベプロは、マスコミの話題を「タイガース解散」から「GSブーム再燃」に持って行こうと、新たな茶番を画策する。加橋が帰国した日の翌日、7月13日に、ヒルトン・ホテルに主立ったGSやウエスタン・カーニバルの常連達を集め、「S・P・A(ソサエティ・オブ・ポップ・アーティスト)」を立ち上げたのだ。これは表向きは、GS同志が互いのグループの垣根を超え、親睦を深め合うことでスキル・アップしていこうとする集まりで、会長にハナ肇、理事長に田辺昭知、理事には内田裕也、岸部おさみ、加瀬邦彦、松崎由治、ジャッキー吉川(当日欠席)というマスコミ受けする面子が並び、あたかもGSブームの再燃を企図するものであるかのように画策されていた。しかしナベプロの真の狙いは、マスコミの目を「タイガース解散」から逸らせることにあったのだ。さらに念を押すように8月25日から開かれた第39回ウエスタン・カーニバルでは、沢田が場内のファンに向かってタイガースは解散しないことを宣言したのだった。
こうしてプロダクションから完全に裏切られた瞳は、グループの中にあっても次第に孤立を深めて行く。そしてついに彼の怒りは年末に放送された「ビート・ポップス」で爆発したのだった。
その日ゲスト出演した彼等の演奏が終わり、番組終了間近になってキャスターの大橋巨泉を中心に、星加ルミ子、木崎義二が来年のロック・シーンについて思い思いの意見を語り合っていたところ、三人の間から瞳がぬっと顔を出し、「来年のことなんかどうだっていいじゃないか。そんなの解るわけないだろう」とマジギレしたのだ。撮り直しの利かない生放送だったため、彼の苛立ちはブラウン管を通して全国のファンの知るところとなった。
「来年のことなど解るわけない−。」
それは取りようによっては、タイガースの未来を否定する言葉とも受け取れた。
1969年12月1日、新生タイガースとしては4枚目のシングルとなる「ラヴ・ラヴ・ラヴ」がリリースされる。ビートルズの「愛こそはすべて」をイメージし、「グループの垣根を超えて」他のミュージシャン達が参加したこの意欲作は、オリコン・チャート最高18位どまりという、全盛時の彼等からは想像もつかない結果となった。
瞳の悲痛な叫びを増幅するかのように、タイガースを演じ続ける彼等の姿は、もはやファンならずとも誰の目にも痛々しく映り始めたのだった。