「美しき愛の掟」は売上枚数こそ前作の「青い鳥」に及ばなかったが、オリコンチャートでは同様に4位をキープし、新生タイガースはまずまずのスタートを切った。
大衆が彼等に注目している間に、プロダクションは次々と企画を打ちだしていった。明治製菓とタイアップしたピクチャー・レコードでは、GSとともにブレイクした作曲家「三人の邦彦」のうち加瀬、村井に続き、鈴木邦彦が沢田のために楽曲を提供。三作目の主演映画「ハーイ!ロンドン」ではバリー・ギブとのツーショットを含む海外ロケと、アイドル・ジュリーを全面に押し出した戦略が展開される中、7月5日に発売されたシングル「嘆き」はチャート8位、同月25日に立て続けにリリースされたギブ兄弟の作品による「スマイル・フォーミー」は3位にチャート・インし、他のGSが泣かず飛ばずの状態にあってタイガースは孤軍奮闘を続ける。しかしこの成果はあくまでも、アイドルスター・沢田研二個人の人気によるものであることは明らかであった。
1969年8月25日から9月1日にかけて行われた第39回ウエスタンカーニバルで、沢田は観客に向かってGSブームが終わっていないことをアピールし、同時に他のグループにも発破をかけるが、ピーク時の半分にも満たない観客の激減はブームが完全に去ってしまったことを物語っていたのだった。
GSブームの終焉は、同時にGSが大衆にもたらした役割が終わったことを意味していた。
彼等が果たした大きな役割は、ミュージック・シーンを追う大衆の目を、国内から海外へと向けさせたことであった。それまで一部のラジオ放送か、テレビでは「ザ・ヒットパレード」くらいでしか知ることができなかった海外アーティストの楽曲が、人気GSのカバーによって次々と紹介されていったのだ。また洋楽を専門に扱う番組も登場し、とりわけ毎週土曜日の午後3時からフジテレビで生放送されていた「ビート・ポップス」は、海外のヒット・チャートを紹介する番組として当時の若者達の間で話題となっていた。番組のスポンサーがアイドル雑誌「ティーン・ルック」を発刊した「主婦と生活社」で、そのCMとタイトル曲がタイガースだったため、オンエア当初はCM見たさにチャンネルを合わせるファンも大勢いたのだった。この番組は大橋巨泉をメーン・キャストに、当時のミュージック・ライフ誌編集長の星加ルミ子、音楽評論家の福田一郎、木崎義二といったメンバーが海外のヒット・チャートをランキングを追って紹介するもので、PVが極めて少なかった当時、楽曲にあわせてダンサー達(当時はゴーゴー・ガールと呼ばれ、振り付けを主に藤村俊二氏が担当していた)が最新のステップを披露し、ゲストにはタイガースを始めとするGSや和製ポップスのシンガーが毎週1組か2組、登場していた。このように国内メディアの環境が整いつつある一方で、海外のミュージック・シーン、とりわけロック・ミュージックには大きな変化が訪れていた。1969年8月の15日から17日にかけての三日間、ニューヨーク郊外のベセルの丘で行われたロック・ミュージシャン達による通称「ウッドストック」フェスティバルは、ロックがミュージシャン達のメッセージを伝える伝達手段であることを露わにしたのだった。そして彼等のメッセージはメディアによって、リアルタイムにリスナー達のもとへ直接届けられるようになった。それは楽曲をカバーすることで、海外のロック・ミュージシャンと国内のリスナーとの「橋渡し役」を務めたGSの役割が、完全に終わったことを意味していたのだった。
また海外のロック・シーンは、ジェフ・ベックやジミー・ペイジ、エリック・クラプトンといった技巧派ギタリスト達の登場や、シンセサイザーによる音楽技術の向上によって、アートの領域へと踏み込み始めた。その背景には言うまでもなく、デビュー当時まさに「4人はアイドル」だったビートルズのクリエイティブな音楽的進化があったのだ。だが、海外のロック・ミュージシャン達がアーティストへと変貌する中にあって、国内のナンバー・ワン・グループ、ザ・タイガースは依然としてアイドルのままであった。メンバーそれぞれの音楽的志向が鮮明になっていく中で、いつまでもフォー・リーブスやピーター等と同じレベルで扱われることに、彼等は次第に苛立ちを禁じ得なくなっていた。そしてメンバーの中で誰よりもタイガースを愛していた男、瞳みのるの苛立ちが、奇しくもタイアップ番組「ビート・ポップス」で爆発したのだった。