「スター、それも石原裕次郎、三船敏郎、美空ひばりという大スターは、いっぺんに五人もできない。ひとりでも、タレントとして備わった素質や風格というものが、最後にものをいう。そういったところからタイガースをみてみると、ジュリーしか大スターの素地や未来性を持った者は、見当たらない。ソロ歌手、映画スターはとにかく、ひとりを大スターに育てあげる方向のレコード企画が、六九年のタイガースの行く道です。」
これは1968年の年末に発行されたアイドル雑誌「近代映画・タイガース特集号」に掲載された渡辺晋社長のコメントである。この社長方針に沿わなかった加橋はクビになり、後釜に岸部の弟シローが据えられた。
シロー加入は全盛時のタイガースと較べれば、サウンド的にもビジュアル的にも著しくバランスを欠いたキャスティングであったが、プロダクション側からすれば、彼の加入は十分にファンが納得するシナリオのはずだった。それはザ・タイガースというグループの生い立ちを知るものにとっては、至極自然な発想だったと言えるのだ。
もともと彼等は当初から音楽の道を志したメンバーの集まりではなく、瞳と出会った加橋が、岸部、森本を紹介され、遊びの延長線上で作ったグループだった。従って当初は楽器の選択も各々勝手に決めており、瞳がリード・ギターを担当していた時期もあったり、リーダーもその時々で変わっていたのだった。彼等の先輩のスパイダースやブルー・コメッツ、ワイルド・ワンズがグループ名の頭にリーダーの個人名を掲げていたのは、グループのリーダーたるべきはバン・マス(バンド・マスター)でなければならなかったからなのだが、彼等には最初から音楽的に中心となる存在がいなかったのだ。デビュー後のリーダー、岸部に「バン・マス」のイメージがないのはそのためである。
そんな彼等にとって、幼い頃から「洋楽を食べて生きてきた」シローは、「超一流のリスナー」として御意見番的存在となった。彼等が「サリーとプレイボーイズ」と名乗り、四人編成のグループでスタートした時、専属のボーカルを加えたストーンズ風の編成を提案したのはシローだった。そしてシローのアドバイスを受け、グループの名付け親でその時のリーダーだった加橋が、サンダースで歌っていた沢田を見つけてきたのである。いわば、シローはタイガースの生みの親的な存在であり、彼の音楽的センスを評価したナベプロは、彼を渡辺音楽出版の出向社員とし、渡米の手助けをしたのだった。またタイガースと同じレコード会社で、後に楽曲の提供も受けるビージーズが、当時ギブ兄弟を中心とした五人編成のグループだったことから、シローのタイガース加入は、「友」よりも深い「兄弟の絆」を大衆に向けてアピール出来る要素となった。
だが「超一流のリスナー」は、あくまでも「リスナー」でしかなかった。
僅かな時差こそあるが、ブライアン・ジョーンズを欠いたストーンズが後釜に天才ギタリスト、ミック・テイラーを加えライブ・バンドとして不動の地位を築いたのとは対照的に、演奏力を持たないシローの加入は、新生タイガースの致命傷となった。戦後のジャズ・バンドならともかく、もはや立ちん棒が通用する時代ではなかったのだ。それはナベプロが沢田一人に固執するあまり、グループとしてのサウンド面を軽視しすぎた結果でもあった。
後に井上堯之、大野克夫といった一流プレイヤーがバックを務める稀代のボーカリスト沢田にとって、彼をサポートするために誕生したはずの新生タイガースは、皮肉にもバック・バンドと呼ぶには程遠いお粗末なグループとなったのだった。