1960年代の日本のミュージック・シーンを大雑把に眺めてみると、「カバー・ポップス」「青春歌謡」そして「グループサウンズ」の三つのムーブ・メントに大別することが出来る。まず61年から63年前半にかけてブームとなったのが「カバー・ポップス」だ。アメリカン・ポップスに日本語の歌詞をつけた楽曲が大量にヒットした時代で、今年の6月6日に永眠された漣健児氏がその訳詞の殆どを手がけられ、大活躍された時代だった。この時代のアイドルは、坂本九、ダニー飯田とパラダイス・キング、弘田三枝子、スリー・ファンキーズ、森山加代子、飯田久彦等で、殆どが50年代後半に訪れた空前のロカビリー・ブームの影響を受けて登場した歌手達だった。従って彼(彼女)等の活動の拠点はジャズ喫茶であり、当時の「ウエスタン・カーニバル」の常連でもあった。
「カバー・ポップス」はロカビリーよりも、より大衆的であったため、テレビの普及と相まって、アイドル達は幅広い年齢層から支持を受けた。特に1962年はテレビの受信世帯数が1000万件を超え、アイドル達は当時のお茶の間に欠かせない存在となった。「洋楽」の専門誌だった月刊ミュージック・ライフ誌でさえ、1962年は1月号の弘田三枝子を皮切りに、年間を通してカバー・ポップスのアイドル達が表紙を飾ったのだった。またこの年はツイストが若者の間で大流行した年であり、一方ではアイドル達の低年齢化が進んだ。弘田三枝子を筆頭に、田代みどり、安村昌子、目方誠(後の美樹克彦)、渡辺順子(後の黛ジュン)、梅木マリ(後の松平マリ子)といった十代前半の歌手達が続々と登場し、マスコミは彼(彼女)等を「ミルク・ティーン」と名付けたのだった。この時代の収穫は、何と言っても日本人歌手で前人未踏の全米第1位を達成した坂本九のオリジナル曲「上を向いて歩こう」だろう。だが彼はカバー・ポップスのシンガーとしても卓越しており、62年9月にリリースされた「レッツゴー物語」では原曲のクレイグ・ダグラスを遙かに凌ぐフィーリングを聴かせていたのだった。
さて63年も夏を過ぎると、カバーポップスに飽き始めた大衆は、その反動とも言うべき日本古来のセンチメンタリズムを求めるようになる。「日本レコード大賞」を創設した日本作曲家協会や取り巻きの音楽評論家達は、ここぞとばかりに超ドメスティックな「青春歌謡」に白羽の矢を立て、マスコミを挙げてのパワー・プッシュの結果、この年の暮れから64年にかけて橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の面子による「歌謡御三家」の時代が到来するのである。海外ではビートルズが大センセーションを巻き起こしていたのだが、戦後初の国家イベント「東京オリンピック」開催へと民族意識が高揚する中にあって、一般大衆の目は「髪の毛の長い異邦人」よりも「清潔感溢れる」青春歌謡に向けられたのだった。
一方テレビの普及は、「青春歌謡」を歌うアイドル達に、ルックスの良さを求め始めた。三田明や梶光夫、川路英夫、久保浩、安達明、叶修二等「美しい十代」達が次々とブラウン管を飾ったのだった。
だが65年になると、ベンチャーズの影響を受けた若者の間に、エレキ・インスツルメンタル・ブームが到来する。このブームは一方で「サーフィン」や「スイム」、「ホット・ロッド」、「モンキー」といった新しいリズムの流行をもたらした。もはや「青春歌謡」の時代は終わりを告げようとしていたのだが、歌手達は流行に乗り遅れまいと必死になってそれぞれのリズムを採り入れ、後の「和製ポップス」の原型となる「リズム歌謡」で抵抗を試みた。
そして66年7月、ついにビートルズがやって来た。保守的な大人達の間では「黒船来襲」のような騒ぎであったが、一方で贅沢になった一般大衆が求めたのは、オールマイティなヒーローだった。そしてそれに応えるが如く登場したのが「若大将」加山雄三だった。「君といつまでも」の大ヒットで一躍メジャー・シーンに登場した加山は、日本人アーティストとして単独でビートルズのインタビューを行う。また彼は「自作自演」アーティストとしても草分けであり、ワイルドワンズの名付け親としても有名で、「青春歌謡」から「グループサウンズ」への貴重な「橋渡し役」を務めたのだった。だが歌も作曲も「本業」でない若大将が大衆の圧倒的な支持を受けたことや、若者達の新しいムーブメントに危機感を露わにした日本作曲家協会は、自らの威信をかけて、この年のレコード大賞を橋幸夫に受賞させる。ヒットもしていない「霧氷」を受賞させたその強引さは、当時の小学生が見ても分かるあからさまなやり口で、以後「レコード大賞」は、その年のヒット曲とは無関係な印象を大衆に与えることとなった。しかし彼等の必死の努力も甲斐無く、時代は勢いを止めなかった。ビートルズに触発された若者達によって「グループサウンズ」の時代が到来するのだ。
このように日本のミュージック・シーンにとって1960年代は、僅か十年の間に幾つものブームが到来する激動の時代でもあった。映画からテレビへと、メディアの覇権が遷った時代、大衆は刺激と興奮をブラウン管の中に求め続けた。メディアはそれに応えるため、次から次へと新しいアイドル達を排出していった。それはあたかも「大量生産」「大量消費」を美徳とした「高度経済成長」の時代を反映しているかのようであった。インターネットを始めとしてメディアが細分化され、大衆が「刺激」ではなく「安堵感」を求めるため、「地上波」には連日同じ顔ぶればかりが登場する現在とは対象的に、当時のアイドル達は短期間で「使い捨て」られた。
そして66年後半から登場したGSブームも、僅か三年でその終焉を迎えるのである。