GSがジャパニーズ・ポップスのルーツと言われる所以は、三つの要素に集約される。
まず一つは「聴かせる」要素。
自らが歌い、演奏できる技術を持っていると言うことだ。
その草分けは、尾藤イサオや鹿内タカシ、ジャニーズ等のバックバンドを務め、抜群のアンサンブルを誇ったブルー・コメッツだろう。
一方グループに「見せる」要素を採り入れ、オリジナリティのあるステージ・パフォーマンスを展開したのが「大芸人」堺正章を擁するスパイダースだった。タイガースがまだファニーズと名乗っていた頃、彼等のファン・クラブに入っていたのは有名な話である。
そして最後に「作れる」要素に徹底的に拘ったのが、加瀬邦彦率いるワイルド・ワンズだった。彼等はブルー・コメッツやスパイダースがボーカル・プラス・インストゥルメンタル・グループとして1962年頃から活動を始めていたのに対し、ビートルズの天啓を受けた加瀬が、彼らの来日後に作ったグループだった。特筆すべきは、ワイルド・ワンズがリリースした楽曲は、全てメンバーの手によって作曲されていると言うことだ。自作自演と言いながら、ブルー・コメッツやスパイダースが他の職業作曲家の手による作品をリリースしていた(例えばコメッツは筒美京平、スパイダースは浜口庫之助といったように)のに対し、彼等が一切、職業作曲家達の手を借りなかったのは流石である。
だが一方でGSは、タイガースの異常な人気によって「音楽」の領域から引きずり出され、社会の偏見の中に晒されてゆく。今であれば、単にビジュアル系バンドとしてカテゴライズされるに過ぎないであろうタイガースが、殺到するファンによって新幹線が止められたり、コンサートで失神者が出たりと、当時では考えられないような出来事の続出によって、マスコミの格好の餌食にされてゆくのである。1968年6月にTBSが放送した「木島則夫ハプニングショー」は、池袋のジャズ喫茶「ドラム」に出演中のタイガースに対して、音楽とは無縁の評論家や高校教師などが客席から非難を浴びせるという、TV史上最も愚劣な俗悪番組だった。
そんな中で名実共にGSの王者となったタイガースに、最後のテーマが課せられていた。
「君だけに愛を」で「見せ」、「花の首飾り」で「聴かせた」彼等にとって、残されたテーマは、メンバーの手によって楽曲を「作る」ことだった。
彼等にとって6枚目のシングルとなる「シー・シー・シー」は、それまでのすぎやまこういち氏の作曲によるものでなく、「作れる」グループ、ワイルド・ワンズの加瀬邦彦の手によるものだった。すぎやま氏の作った「南の島のカーニバル」があまりにも出来が悪く、急遽、加瀬に白羽の矢が立ったことは有名な話である。また加瀬の作品はタイガースにとって、オクラになった「可愛いアニタ」(ワイルド・ワンズがヒットさせた「愛するアニタ」)に続く二作目だった。
「シー・シー・シー」は前作の「花の首飾り」に続いてオリコン・チャート第1位を達成するビッグ・ヒットとなる(作詞の安井かずみと加瀬のコンビによるオリコン・チャート第1位は、後年沢田の「1等賞シリーズ」の幕を切る「危険な二人」によって再現されることになる)。
しかしこのヒットは、彼等をして、いやがうえにも創作活動をかき立てる結果となった。
いくら先輩とはいえ、同じGSの仲間に楽曲を提供して貰ったとあっては、王者としての沽券に関わるのではないか?と、思ったかどうか分からないが、それはそれとして、「マスコミ的」に彼等のライバルと称されていたテンプターズが、既にメンバーのオリジナルをヒットさせていることも刺激のひとつだったに違いない。
彼等は日本のグループとして初のトータル・コンセプト・アルバム「ヒューマン・ルネッサンス」の制作に着手する。だがこのアルバムこそが、タイガースのグループとしての存在意義を消滅に追いやる作品となってしまうのだった。