Page00011967年12月25日、彼等の伝説の扉を開く第4弾シングル「君だけに愛を」がリリースされた。
この曲はイントロが前作の「モナリザの微笑」を思わせるマイナーなスロー・バラード。ギターとドラムが入った後、突然曲調がミディアム・テンポに一変する。ステージングではイントロを歌い終えた沢田が観客を背に後ろを向き、ギターの合図で振り返るとともに、観客めがけて右手で指を指す。指された観客からは悲鳴のような嬌声。「君だけに」と歌いながら、次々と観客を指差し、ファンを煽る沢田。その度に挙がる嬌声の嵐。場内は熱狂の坩堝と化してゆく。まさにステージとオーディエンスとが一体となったライブ・パフォーマンスが生み出されたのだった。
だが沢田の「観客めがけて指差す」アクションは、この曲が最初ではなかった。既に彼等のステージで定番となっていた「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」で彼はオーディエンスの反応を試していたのだ。(余談ではあるがR・ストーンズの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」と「テル・ミー」のカップリングは、タイガースがステージで取り上げた後、日本で一番売れたストーンズ・ナンバーとなったため、紹介者となったタイガースの偉大さを物語るエピソードとなっている。)
後に大歌手になった沢田が「左手でしかマイクを持たない理由」をインタビューされたことがある。その時彼は「ステージで色っぽく見えるから」と答えていた。まさに彼のステージは、どのようにしてオーディエンスを乗せるか、煽るかを緻密に計算し、読み尽くされた結果であり、その発端となったのが、この「君だけに愛を」のステージ・パフォーマーだったのである。
ライブ・コンサートの醍醐味は、ステージとオーディエンスが一体となった熱狂にある。タイガースのライブ・コンサートでは「君だけに愛を」のイントロが流れ始めるや、沢田の人差し指が何処に、誰に向けられるか、期待と興奮で観客のボルテージは頂点に達する。まさに彼等のステージングはライブ・パフォーマンスのルーツだったのだ。だから彼等のライブをリアルタイムで体験した者には、後にYAZAWAやユーミンやGLAY達が、いかに大がかりな仕掛けで多くの動員数を達成しても二番煎じにしか映らない。それはタイガースのステージこそが、ライブ・コンサートの原型だったからである。
さて、「君だけに愛を」は、公称百万枚を越す大ヒットとなり、ザ・タイガースは名実共に数多あるグループサウンズのトップに立つ。それも遙か下界を見下ろす位置に。そして、ようやくナベプロは本腰を入れ始め、彼等の主演映画の制作に乗り出すのだ。
だが彼等を熱狂によって迎えた1968年は、彼等が伝説を生み出す一年でもあった。
彼等がこの年、日本のロック・グループとして「初めて」行った主立ったものは
● 武道館でのライブ・コンサート
● オリコン・チャート連続第一位達成
● 後楽園球場での野外ライブ・コンサート
● 全曲オリジナルのコンセプト・アルバムの制作
等が挙げられる。
これらを今、改めて眺めてみると、アイドルが「スター」として「認知」されるためにクリアしなければならない「必須アイテム」のようにしか見えない。しかしこれらを今から40年も前に、しかも「最初」に成し遂げたからこそ、タイガースが「伝説」のグループと呼ばれる所以なのだ。
またこの年、多くのメデイアがタイガースを中心に動き出す。5月〜6月にかけて出版された「セブンティーン」(集英社)、「ティーンルック」(主婦と生活社)、「ヒットポップス」(学習研究社)の三誌は、いずれもが彼等を追いかけ、彼等のニュースを紹介する雑誌であり(毎号、彼等のポスターやピンナップが付いていた)、特に「ティーンルック」はテレビCMやテーマソングに直接彼等が携わったことで、ファンクラブの「会報」とはまた違った意味の「タイガースの広報誌」的存在となった。
このような新たなメディアの登場に加え、既存のアイドル雑誌も毎号タイガースが巻頭グラビアを飾る。
月刊「明星」では1968年11月号の表紙を、アイドル・グループとして初めてタイガースが単独で飾った。それまで、いやそれ以後も数年「明星」の表紙は女性アイドルか男性アイドルプラス女性アイドルの組み合わせで飾られていた。後、「明星」の表紙をアイドル・グループが単独で飾るのは、20年以上経た1991年5月号のSMAPまで待たねばならなかった。



月刊明星1968/11