Page00011967年5月5日、タイガースは2枚目のシングル「シーサイド・バウンド」をリリースした。
この曲は「バウンド」というリズムを取り入れ、フロントの4人が間奏のところでそのステップに乗って踊るもので、「シャボン玉ホリデー」や「ヤァヤァヤング」など既にレギュラー番組を持っていた彼等にとって、ビジュアル面をアピールする絶好の作品となった。このステップは「タイガースのテーマ」ほどの激しい動きではなかったが、かえってそれがファンには親しみやすく、「シーサイド・バウンド」は夏の到来とともにヒット・チャートを駆け上っていった。
タイガースの成功によって、彼等の後を追うように、この時機ジャガーズ、カーナビーツ、ゴールデン・カップスといったグループが次々とデビューした。そしてマスコミは彼等を「グループサウンズ(GS)」と呼ぶようになる。
8月に入ると彼等は大手町のサンケイ・ホールで初のリサイタルを開く。それに併せるように3枚目のシングル「モナリザの微笑」をリリース。この曲が忽ち大ヒットし、彼等はブルー・コメッツ、スパイダースと並び3大GSと称されるようになる。だがこの時の彼等の勢いは、まさにブルコメ、スパイダースという2匹の「飛ぶ鳥を落とす」が如き凄まじいものであった。そしてこの勢いを駆って年末の「紅白」出場や新人賞獲得に挑もうとしていた矢先、事件は起きた。
11月5日、奈良県のあやめ池遊園でのコンサートで、混雑のあまり見物客に怪我人が出たのである。今ではさほど問題視されない出来事が、当時はブームの過熱化と相まって、新聞の社会面を飾る「事件」となった。まさに「グループサウンズ」が社会現象化する口火となったのだ。しかしこの時の新聞の論調は、タイガースを非難するものではなく(勿論、当たり前のことだが)、警備の不手際が問題視されていたのだった。だが、この事件を「待ってました」とばかりに重大視した連中がいた。NHKの幹部達である。
NHKでは11月12日に放送予定の「歌のグランドショー」にタイガースが出演することになっており、その録画が10月25日に収録されたばかりだった。タイガースにとってもこの番組への出演は年末の「紅白」に向けての布石となるはずだった。ところが当時のNHK会長前田義徳が「長髪でエレキギターを弾いて歌う奴等はダーイキライだから放送するな」と言ったために幹部達は慌てた。いかに彼等にとって会長の一声は神様の命令と同じであっても、個人的な好みを理由にタイガースを番組から外すことは彼等なりに勇気が必要だったのだ。
そこへ渡りに舟とばかりに、格好のニュースが飛び込んできたのである。
あたかも事件の加害者がタイガースであると言わんばかりに、「事故を起こした危険極まりないグループ」を公開番組に出演させることは出来ない(既に出演させ録画撮りしているのに?)とし、前田の嫌いな「長髪でエレキギターを持った奴等」はこれを機に一切NHKの番組には出演させない方針をとったのである。そしてこれに呼応するように、以前から「エレキギター=不良」のイメージを定着させていた中・高校が、グループサウンズのコンサートに行った者を停学や退学にする処分を下し始め、事実上コンサートを禁止する中・高校が続出し出したのだ。今では信じられないような話だが、当時「良識者」と言われ、崇められていた一個人の好みによって、多くの中・高校生達が自らの楽しみを奪われたのである。これは明らかにタイガースをはじめとするグループサウンズと、そのファンに加えられた「弾圧」以外の何物でもなかった。
しかしこの事件に対して、ナベプロは何の対応も取らなかった。例えば近年、稲垣吾郎が事件を起こした時、彼に対する非難の論調を、他のメンバーの気遣いやグループの結束力への美談に変えたのは、ジャニーズ事務所の「力」である。当時クレージーやピーナッツ、三人娘を始め多くの人気タレントを擁し、数多くのテレビ番組を持ち、総理大臣ともパイプのあった天下の「タレント王国」ナベプロが、タイガースを犯人扱いしたNHKや、そのNHKを肯定するが如き論調のマスコミに対して、何の政治力も発動しなかったのだ。
それだけではない。この年、新人歌手で一番のレコード・セールスを達成したタイガースが、レコード大賞新人賞を獲れなかったのである。「実績」よりも「実弾」が物を言う「賞獲りレース」に、所属プロダクションから実弾を出し惜しみされたタイガースは、無惨に敗退したのだった。
一体ナベプロは、彼等の何処に金を使ったというのだろうか?
マスコミがタイガースに対して「ナベプロが大金を投じた」と書くとき、決まって出てくるのが「彼等の普段着は全てブランド物で数十万円」という下りだ。思わず「ハァ?」と言いたくなってくる。これでは加橋や瞳に「こき使われた」と言われても仕方ないだろう。
これらの一連の事件にナベプロがマスコミに対して取った唯一の戦略は、「大人は分かってくれない」的な少女達のセンチメンタリズムに訴え、世代の断絶を煽りながら、彼等を「可哀相なタイガース」、「悲劇のヒーロー」に仕立て上げることだった。
おそらくタイガースは、ナベプロ内で最もコスト・パフォーマンスの優れたタレントだったに違いない。
だが、1968年に入ると、彼等の人気は「紅白」や「レコ大」などが遙かにに霞んでしまうほど凄いものになる。あたかも当時のビートルズが、ジャズやロックといった洋楽のカテゴリに分類できない程のブランド力を見せつけていたように、彼等は日本の歌謡界で「ザ・タイガース」という一つのジャンルを確立するのだ。