1966年12月1日、彼らの記念すべきデビュー・シングル「僕のマリー」がレコーディングされた。
この年は、加山雄三の「君といつまでも」が大ヒットし、若大将ブームが起こるが、一方でビートルズやベンチャーズの影響を受けた若者達がエレキバンドを作り、彼等によってジャズ喫茶が活性化され、また大学のサークル活動を中心にフォークソングが脚光を浴びるなど、ミュージック・シーンには新たなムーブメントの兆しが見え始めていた。
そんな中、ブルー・コメッツは「青い瞳」のヒットで紅白歌合戦に出場、年末にかけてスパイダースが「夕日が泣いている」を、サベージが「いつまでも、いつまでも」、そしてワイルド・ワンズが「思い出の渚」をヒットさせる。
タイガースの「僕のマリー」は翌67年2月5日に発売となるが、この時の宣伝ポスターには彼等を称して「フォーク・ロック・グループ」と記されてある。まだこの時点では「グループサウンズ」という言葉は誕生していなかった。
しかし年末から年始にかけてのブルー・コメッツやスパイダースのブレイクは、明らかにグループによる新しい時代の到来を告げていた。そしてそれはビートルズに触発された彼等が、自分たちの手でオリジナリティのあるサウンドを作り上げることをコンセプトとしていたものだった。
ブルー・コメッツには井上忠夫、スパイダースにはかまやつひろし(後に大作曲家となるキーボード奏者、大野克夫は未だその天賦の才を発揮していなかった)、そしてワイルド・ワンズには加瀬邦彦がコンポーザーとして、彼等独自のサウンドをクリエイトしていたのだ。
従って1966年の年末から1967年の年始にかけては、まだ「グループサウンズ」という言葉は登場していなかったものの、その定義は「自作自演−グループ自らの手によって作られた独自のサウンド」を意味していたのである。
そんな中、1967年1月10日から一週間、タイガースは「日劇ウエスタンカーニバル」に初出場した。
「ACB」や「ドラム」といったマイナーなジャズ喫茶から、一躍メジャーな檜舞台への登場が決まったのだった。
彼等は内田裕也や尾藤イサオのバックを努めることを条件にトリ前に登場し、新人歌手の前例に倣い、一曲のみを演奏した。
しかしこの一曲こそが、彼等を、そしてグループサウンズの定義そのものを、根底から変えてしまう一曲だったのだ。
その曲は「タイガースのテーマ」。
折からアメリカで大ブームとなり、日本においてもテレビ番組となっていたアイドル・グループ「モンキーズ」のテーマソングの歌詞を、彼等は「タイガース」に変えて演奏したのだ。
彼等はこの曲を披露することで「世界のモンキーズ」に対し「日本のタイガース」をアピールすると同時に、自らの「アイドル宣言」を行ったのである。
おまけにこの曲には「振り付け」まで付いていた。ドラムスの瞳を除くフロントの4人が横一列に並び、ツイストでバックしてから、大きくジャンプして前方へ、右に向きを変えた後、足を片方づつ蹴り上げるという激しい「ダンス」だった。
そのステージは「美少年」沢田を中心とする若々しくカッコイイ、まさに「アイドル・グループ」の誕生を強烈に印象付けた。そしてこのウエスタンカーニバルを機に、彼等の人気は鰻登りとなり、「グループサウンズ」という一大ブームが訪れるのである。
もしこの時の選曲が、彼等の定番だったR・ストーンズのナンバー「アンダー・マイ・サム」や「ペイン・イン・マイ・ハート」だったらどうだったろうか?いや名曲「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」だったとしても、彼等のブレイクはあり得なかっただろうし、「グループサウンズ」も別の方向へ向かっていただろう。
まさにこの「タイガースのテーマ」こそがグループサウンズの定義を「アイドル」に変えた貴重な「一曲」だったのである。