ナベプロの戦略によって、僅か2年でグループとしての存在意義を喪失してしまったザ・タイガース。
しかし彼等が巻き起こした爆発的な人気は、決してプロダクションによって作られたものではなかった。むしろ彼等の人気が出たことで、ナベプロは彼等をコントロールし始めたのである。後日、加橋が語っているように、「人気が出過ぎたために、自分達のやりたい音楽ができなくなってしまった。」のだった。
マスコミが報じたような「ナベプロが仕掛けた」とか「大金を投じてスターにした」とか「鳴り物入りのデビュー」は、全くデタラメな「後付」だった。あたかも同時期、世界的なブームとなったモンキーズが、オーディションによって戦略的に作り上げられたグループであることと同じトーンで、彼等の人気は語られていたのだ。
マスコミによれば、タイガースは「内田裕也にスカウトされ、すぎやまこういち氏の命名で華々しくデビュー」した。
しかし彼等は内田によって「スカウト」されたのではない。内田がナンバ一番にやって来た時に、当時リーダー兼渉外係だった瞳の猛烈な交渉に、内田が乗ってしまったのである。だがその時の内田は、彼等を自分のバックバンドにしようと考えていたのだった。また、すぎやま氏の命名も、後日談では「彼等を初めて見た時、そのしなやかさに若虎を連想したから」らしいが、これもまた人気が出た後の「後日談」である。
1966年11月22日、タイガースのテレビ・デビューとなるザ・ヒットパレードがオン・エアされた。
新人コーナーに登場した彼等はポール・リビアとレイダースの「キックス」を演奏した。その間僅か数十秒。メンバー個人の紹介もなく、司会者から「関西出身だからタイガースね」と極めていい加減な口調で紹介されていた。すぎやま氏が後日語っている「しなやかさ」はこの時なぜか「関西出身だから」になっている。これが「鳴り物入り」のデビューと言えるのだろうか?
おそらくナベプロは当初、彼等があんなに人気が出るとは思っていなかったに違いない。
この年はビートルズの来日に触発されて若者の多くがエレキバンドを作り、数年前のロカビリー・ブームを彷彿させるようにジャズ喫茶がヒート・アップし始めていた。しかしメジャー・シーンでは、依然御三家や青春歌謡に人気があり、脚光を浴び始めていたブルー・コメッツやスパイダースにしてもその方向性は別々で、未だ「グループ・サウンズ」と言う言葉も存在していなかった。ナベプロサイドとしては様子見を決め込んでいたのだろう。
このようにザ・タイガースのデビューは後日マスコミが報じたように決して華々しいものではなく、実に静かなものだった。そして彼等は自らの手で人気を獲得してゆく。だがその人気が、やがて社会現象となり、皮肉にも彼等を組織の管理下に置いてしまうことになろうとは、この時の彼等には知る由もなかった。