加橋の除名が松下宣伝部長から公式に発表される前に、美佐はヒルトンホテルに加橋と彼の母親を「軟禁」状態にし、加橋がパリでソロアルバムをレコーディングするための渡航手続を済ませていた。
しかしナベプロが仕掛けた加橋の「タイガース除名」劇は、公には、いやタイガースを愛するファンの前には、あくまでもグループ内での問題として表面化されねばならなかった。
そのような状況下でナベプロサイドのトップ・プライオリティはスター沢田研二に一切傷を負わせないことだった。
1969年に入るとGSブームは翳りを見せ始め、タイガースにとっても主演映画の不入りやレコード・セールスの低下は否めない事実となっていた。
ナベプロとしてはこの機に「歌手・沢田研二」の誕生を画策してもよかったはずだ。
しかしグループの解散を断固拒否したのは当の沢田本人だった。
彼はリスペクトするミック・ジャガーが「ローリング・ストーンズのボーカリスト」であるように、自らも「タイガースのジュリー」に拘り続けていたのだ。
従ってナベプロは当初の晋の方針に沿い、タイガースを「沢田と彼のバックバンド」にするために、加橋除名後の最も適切なグループメンバーの再構築を考えていた。
タイガースが「GSの王者」と称され、他のグループを圧倒していた要因は数多くあるが、その一つとしてグループとして絶妙のバランスを保っていた事が挙げられる。
まずファンが親しみやすいようにメンバー一人一人にニックネームが付いていた。沢田=ジュリー、瞳=ピー、加橋=トッポ、森本=タロー、岸部=サリーと言ったように。
そしてそれぞれのキャラがカブることなく程良い調和を保っていたのだ。
彼等が少女達に与えたイメージは、「星の王子様」ジュリーを囲むステキな仲間達、
アメリカン・トラッドの似合う明るく陽気な好青年ピー、
ユーロピアンムードを醸し出す物静かな芸術家トッポ、
和服の似合う育ちの良い老舗の若旦那タロー、
そしてブラッキーなフィーリングでグループをまとめる親分サリー、だった。
人気の頂点にいた彼等にはメンバーそれぞれに熱狂的なファンがついていたため、ナベプロサイドとしても個人活動を視野に入れた戦略を組み立てていたが、人気に翳りが出始めると沢田中心にグループを立て直す方針にシフトしていった。あたかも収益が低下し始めた企業が主力商品に的を絞って営業戦略を練り直すが如くに。極端な表現ではあるが沢田以外のメンバーは彼の引き立て役に相応しい面子でなければならなかったのだ。アクの強い加橋には沢田の引き立て役が務まろうはずがなかった。
だが加橋の除名後、タイガースは何故4人のメンバーで活動しなかったのだろうか?
演奏技術を持たない立ちん棒を加えてまで、5人にする必要があったのだろうか?
そこには「スター沢田研二」に一切ダメージを与えないナベプロの巧妙な戦略が伺える。
まず、加橋の除名はファンの前ではあくまでもグループ内で発生した問題であるため、4人で活動を続けることは事実上(演奏上)可能だったとしても、ファンの目は「裏切り者・加橋」と「傷を負った4人のメンバー」に平等に向けられることになる。これでは沢田一人が主役になることはできない。むしろ「悪役・加橋」の方に注目が集まってしまう。従って沢田を中心としたグループの存在にファンの目を向けさせるには、タイガースそのものが新しく生まれ変わる、いわゆる真のリストラクチュアリングが必要だったのだ。
次にその変革は、あくまでもグループ内で起きた問題の解決であるため、メンバー自身の手によって行われることが最も理想であると判断された。
従って上記の要素を勘案してナベプロが書いたシナリオは以下の通りである。
「グループの危機に直面し、リーダー岸部は一案を講じた。アメリカにいる弟シローを呼び戻そう。シローはグループに最も身近な存在で、いわばタイガースのアメリカ特派員だ。彼のメールは記事にもなっているし、ファンの間で彼の存在を知らない者はいない。また前年のアメリカ旅行の時には我々の案内役を買って出てくれたことで、公にもその存在は認知されている。彼が助っ人となって新生タイガースを作るのだ。」
こうしてシローはアメリカから呼び戻される。
そしてナベプロはシローのグループ参加を、あくまでも「メンバーの依頼によるもの」であることを内外に印象付けるため、形だけのオーディションをシローに受けさせるのだ。
このようにして僅か短期間の間に、タイガースは「スター沢田研二と彼のバックバンド」に生まれ変わるのである。