Page00011971年1月24日、ザ・タイガースは4年間のグループ活動に終止符を打った。
しかしザ・タイガースが自ら「グループ」であることの意味を消滅させたのは、それより2年前の3月5日だった。
1969年3月5日−。
加橋かつみがメンバーの前から姿を消した日である。
その日はあたかも突然やってきたかのように報じられた。
プロダクションの管理下に置かれていることや、スターとして要求されるルールに苦痛を感じ、以前から抵抗を示していた加橋が、ついに決定的な行動に出たと誰もが思っていたのだった。
しかし3月5日は突然やってきたのでは決してなかった。
「グループ・サウンズ(GS)」という社会現象を背景に、1968年の幕が開けるとザ・タイガースは人気の頂点に上り詰めた。
彼等の人気の凄まじさは後述するとして、ブームの頂点に達した頃からグループ内の亀裂は生じ始めていた。
自らの理想と大きく外れた現実を、受け入れることができない加橋。その加橋の我侭とステージ・マナーの悪さを許せない沢田。
ステージの袖での掴み合いの喧嘩の後、二人は互いに口を利くことは無かった。
しかし「花の首飾り」の大ヒットを放ちドル箱となった彼等に、ナベプロはマスコミを通じて巧みに虚構を演じさせる。
沢田と加橋の不仲説が流れるや、忽ちアイドル雑誌のグラビアには北海道の草原を肩を組んで歩く二人の姿が載った。
その後もナベプロは、彼等を徹底的にコントロールし続けた。
しかし当時のナベプロの経営陣は一枚岩ではなかった。
社長の渡辺晋を中心とする晋派と副社長の渡辺美佐を担いだ美佐派との間に対立があり、タイガースをめぐっても二人の間には意見の相違があったのだ。
沢田のタレント性を評価していた晋は、タイガースの将来を「沢田と彼のバックバンド」として位置づけた。これに対し、晋以上に沢田を評価しつつも、グループとしての存在感を重視していた美佐は、メンバーの個人活動も視野にいれた戦略を考えていた。大成功を納めたクレイジー・キャッツのように。
そして美佐の戦略に乗せられた加橋は「廃墟の鳩」のセールス・キャンペーンや「ヒューマン・ルネッサンス」の制作を通して、自分の意思とは裏腹にアイドル・スターへとキャスティングされていく。1968年の秋以降、加橋は沢田、萩原健一(テンプターズ)に次いでアイドル雑誌の誌面を飾るようになる。
しかしそれは加橋にとって、苦痛以外の何物でもなかった。
年末のアメリカ旅行で彼は、日本では決して得ることのできない貴重な出来事を体験する。そして帰国した彼の口元には、自らのアイドル性を否定する「髭」が蓄えられていたのだった。
しかし一方でタイガースを取り巻く環境の変化は、翳りが見え始めたGSブームを象徴するかのように、レコード・セールスの低下という事実となって現れた。
ナベプロは晋の方針に沿い、タイガースを「歌手・沢田研二」をフューチャリングした「サポートメンバーの集まり」として位置づけるようになった。
我が儘で目障りな加橋はクビにすればいい。それは加橋本人も望んでいることなのだから。
既に加橋にはキャンティの仲間を中心とする彼の人脈によってソロ・アルバムの準備がなされていたのだった。
ナベプロにとっても、加橋にとっても、後はXデーを待つばかりだった。
そしてその日はやって来た。
1969年3月5日−。